HOME  >>  関西登高会とは





■ 会の概要


 関西登高会は1946年、終戦直後の混乱の中で、いち早く登山活動を再開した大阪の尖鋭的な登山家を中心に結成した会です。
 翌1947年春、防水も利かない木綿のヤッケを身に、粗末な装備と食料で、北アルプスの剣岳早月尾根から槍ヶ岳まで、雪洞を掘って縦走、登山復活の先鞭をつけた。主に北アルプスを中心に岩壁と氷雪の登攀を重ね、いくつかの先駆的成果を挙げてきた。
 その中で培った力は、当然のようにヒマラヤを目指し、1961年、全日本山岳連盟登山隊の中核としてネパール・ヒマラヤのビッグホワイト・ピーク(7821m)に遠征。  頂上を目前に、荒天のため初登頂を断念したが、以後、1964、5年とアラスカのセント・エライアス、マッキンリー、70年代にはダウラギリ4峰(7661m)、6峰(7268m)の初登頂を初め、80年代にはマッシャブルム峰(7821m)の第三登(北稜の初登攀)など、いくつかの成功を納めるとともに、遭難という失敗も重ねてきた。
 遭難事故の後に停滞期もあったが、そんな中でも登山適齢期の会員は全国組織の登山隊に参加してK2,チョモランマ、カンチェンジュンガ、ブロードピークへとビッグクライムを続けた。  1997年には会の50周年事業として、会単独で8,000メートル峰を登りたいと考え、ナンガ・パルバート峰(8126m)ディアミール壁より登頂することが出来た。しかし会はその後高齢化が進み、活動も停滞、マンネリ化していった。
 そんな中で、もう一度、全力でぶつかる登山がしてみたいという機運がわいてきた。  2010年3度目となるアラスカ・マッキンリー峰に平均年齢65歳(6人)のパーティーで挑戦した。自分の力と意思だけでどこまでやれるか。もちろん、それなりにトレーニングを積み、己の体力と気力の挑戦だった。
 いま会はこれからも精一杯登るために新たな目標を模索している。2012年には創立65周年を迎えるが、山登りに対する真摯な姿勢、情熱は失っていないと自負している。

(2011年著)


会員数 85人、 現在活動人数10数名


■ 主要登山(海外登山)記録


   
1947年 立山・剣岳(第一回冬山合宿)
 
関西登高会の出発点となった昭和22年の正月合宿。
天狗小屋前で撮した創立メンバー達。
1961年 ビッグホワイトピーク
 
会だけの登山が許されず、東京との合同隊であったが、梶本隊長以下4名が参加し、最初のヒマラヤを経験した山。 写真の左奥が主峰(7083m)で、中央はギャルツェンピーク。
1964年 セント エライアス峰
 
目指すヒマラヤは登山禁止となり、高度は低いが厳しい条件を考え、会はアラスカを選ぶ。 会単独での初の海外遠征となったセントエライアス峰。 スキーストックの上がニュートン峰(4200m)で、その右が主峰(5488m)。
1965年 マッキンレー峰
 
セントエライアス峰につづいて北米の最高峰マッキンレー(6191m)に挑み、 バリエーションルートの南壁東稜から3名が登頂した。右の稜線が東稜。
1970年 ダウラギリ6峰
 
軽量とスピードを考え続けた会が、最初の初登攀に成功したのがダウラギリ6峰である。 カペ氷河の下部より眺めた6峰(7268m)。
1968年
1970年
1973年
1978年
フォーレーカー峰
 
アラスカではセントエライアス、マッキンレーにつづいて、フォーレーカー(5303m)、バンクーバー、 ハンター、マーカスベーカーなどに遠征を繰り返し、若い会員が力をつけた。 フォーレーカー峰は二度の挑戦で、いずれも目的を果たさなかった。
1975年 ダウラギリ4峰
 
ダウラギリ4峰(7661m)と6峰は、関西登高会の山だと考えるのは、思いあがりだろうか。 岳友河津君と安田君が、永眠する山として何時までも心の痛む山であり、会として忘れられない山である。
1977年 チョモランマ
 
1980年春の日本山岳会チョモランマ登山隊は戦後、北面から初めて挑む外国隊として世界の注目を集めたが、 賀集が北壁隊の隊員兼医師として参加した。 賀集は登頂のチャンスに恵まれなかったが、会友の重広ら3人が8848mの頂上に立った。
1980年 K2
 
世界第2の高峰K2(8611m)には日本山岳協会隊の一員として賀集、山本、会友重広の三人が参加、 重広、山本が頂上を踏んだ。
1980年
1985年
マッシャブルム峰
 
バルトロ氷河の入り口に怪鳥コンドルが翼を広げた様にそびえるマッシャブルム(7821m)。 その北稜はダウラギリ4峰につづく執念の山となり、2度目の挑戦で全員登頂した。
イェルマネンド氷河のベースキャンプから見る北稜(中央)。
1984年 カンチェンジュンガ
 
1984年春のカンチェンジュンガ縦走登山は日本山岳会80周年記念登山として行われ、 賀集が中央峰ルートのリーダーとして参加。 会友の重広が南峰と中央峰に登頂したが、主峰(8598m)には到達できなかった。
写真はベースキャンプから頂上稜線を望む。
1985年 ブロードピーク
 
関西カラコルム登山隊はマッシャブルムにつづいてブロードピーク(8047m)にアルパインスタイルで登頂。 賀集、西堤、重広らが頂上に立った。
写真はK2隊C4から見たブロードピーク。
1990年 マッキンレー峰
 
アラスカ・マッキンリー峰(6194m)のウェスタン・リブから登頂、 つづいてフォレーカー峰(5303m)の北東稜と南東稜からの連続登攀を目指したが、マッキンリー登頂後、高度障害により一名死亡という遭難事故を起こし計画を中断した。
1997年 ナンガ・パルバート
 
50周年記念登山隊としてナンガパルバート峰(8126m)ディアミール壁より3名が登頂。 結成以来50年を経て、会は高齢化・マンネリ化し、新戦力の補充もままならない中、会単独の平均年齢51.7歳のメンバーで初めての8000m峰に挑み、シェルパと酸素タンクを使わず自らの力で荷揚げをして登頂することができた。
2010年 マッキンレー峰
 
平均年齢65歳のパーティーで挑んだマッキンリー峰登山。 60歳代を中心にもう一度全力でぶつかる登山がしてみたいという機運がわき、川本隊長(74才)以下6名の隊が結成され、2010年6月13日ウエスト・バットレスノーマルルートより3名が登頂。会としても3度目の登頂である。
2013年 Mt.アイガー(3975m)ミッテルレギ稜
 
NHKのグレートサミットに魅せられ、昨年3名で挑みましたが悪天候の為取り付けず、Mt.メンヒ(4107m)に登り、2013年再度60歳代の4名でアイガーミテルレギ稜へ挑み、 8月23日全員登頂いたしました。アイガー山頂からさらにMt.メンヒへの稜線の岩峰を越えていく長い登攀が続く充実した登山を楽しめました。米田君の表現に「アイガーは人を酔わす」と有るように、人を魅了する山でした。これからも自分達に出来る山を模索しております。
2015年 ビアンコグラートからピッツ・ベルニナ(4049m)ピッツ・パリュ(3905m)
 
ピッツ・ベルニナ ビアンコグラートは地元では、天のはしごと呼ばれ白い雪の稜線が真っ青な空に突き上げているように美しい稜線です。 19世紀からの登頂記録ノートに我々も一筆書きたいと思い、アイガー登山の賀集(66)米田(65)木村(68)に、海外登山初の豊島(60)の4名で挑んできました。
2016年 マッターホルンとユングフラウ、アイガー
 
ヘルンリ稜からマッターホルン(4478m)を登頂。後半は2チームに分かれてユングフラウヨッホからユングフラウ(4158m)とミッテルレギ稜からアイガー(3970m)を登る。若い頃に憧れた名峰を自分達の年齢を考慮し、安全なガイド付き登山を楽しむ。
   







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